幽栖録

極私的備忘録

その後、読んだ本

『彼は早稲田で死んだ』樋田毅 文藝春秋

著者は(50年後の今)当時の革マル派幹部に何を求めていたのだろうか? 私には、著者が、当時のセクトの連中は(今となってはお笑いだが)本気で革命を目指していた、ということに対する認識が甘いのではないか、と思えた。68年前後の全共闘運動の盛り上がりの中心は多くの一般学生で、彼らは大学の自治、学問の自由、大学はいかにあるべきか、その中で我々学生はどのように行動し生きてゆくべきなのか、といった問題を真摯に考えながら、そのような問題提起に対する大学当局、教授連の不誠実な、あるいは権威主義的な対応に対する怒りから行動を起こしていたのだろうと思うのだが、一般学生とは違うセクトの連中は、それらの混乱を、革命成就のためにいかに利用するかという観点からしか見ていなかった。一般学生を中心とした全共闘運動は70年初頭にはすでに下火になっていたが、セクトの連中はまだそれなりの組織力を保持しながら、本気で革命を考えていたのだ。セクト同士のいわゆる内ゲバも、彼らが本気で革命を考えていたからこそ、その方法論の対立から、敵対セクトのやり方では結局資本家支配階級に取り込まれ、彼らを利するだけ=反革命という理屈から、まずは最も身近な反革命を倒さなければならない、という行動だった。そういう彼らにとって、対立セクトの集会(勉強会)に顔を出していた一般学生を、対立セクトのスパイと誤認してリンチ殺人に至らしめたことは、革命成就の過程の中で起こった一つの誤りに過ぎないというのが当時の評価であったろうし、その誤りを根拠に組織が攻撃されるということもまた反革命であり断じて許せない、粉砕しなければならないことだった。全くの事実誤認で、凄惨なリンチを受け殺された方にとっては、到底許せる理屈ではないのだが、殺した側を追及したところで「当時の自分たちは馬鹿でした(集団狂気に満ちていた)」という以上の反省の弁は出てこないのだろう。もともとは弱いものを助けたいという思いから出たはずの思想が、いつのまにか独りよがりで、その弱者をもないがしろにしていってしまうものに変節してしまうのは何故なのか、著者の言う「寛容と不寛容」の問題をとことん考えてゆくことで解決可能なのか、あるいはそもそも永遠に解決不可能な(人間の本質に根差した)問題なのか? どうなのだろう。という感想を持った。