幽栖録

極私的備忘録

 その後、読んだ本

『王妃の首飾り(下)』デュマ 創元推理文庫
読後感はちょっと苦いかな。「愛」があまりになんというか、、、。
『今こそアーレントを読み直す』仲正昌樹 講談社現代新書
再読。奥付を見たら2014年8月7日の第八刷であった。前読んだのは2009年だから、同じ本をまた買っちゃったんだな。ちょっと読み始めたら結局最後まで読んでしまった。せっかく再読したので、ちょっとだけ内容(の一部)についてまとめておこう。
アーレントにとっての政治とは、ある政治的共同体にとっての「善」とは何かについて、様々な意見を持った人たちが討議し続けること、それが「政治」の本質である。それ(善とは何か)について結論を出すことが重要なのではなく、討議し続けることが「政治」であり、その討議を通して「人間」らしい関係性が培われ、我々は「人・間」になるのである。という考え。
「複数性(多元性)」を前提とした「活動」、これが人間が人間であるために必要な3つの条件のうちの一つ(ちなみに他の二つは「労働」と「仕事」)。この「活動」というのは、「言語や身振りによって他の人(の精神)に対して働きかけ、説得しようとする営み」であって、まあそれが上記の「政治」に直結している。複数性(多元性)を前提としているというところが一つのミソで、それが党派性(一元的価値観)を持ってしまっていては(アーレントから見ると)否定的な評価になる。僕が思い出した例はべ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」が正式名称?)かな。これは様々な価値観を持った人々がベトナム戦争反対という一点だけで共同行動をしようとした運動(活動)で、複数性を持ちながら活動していたという点で(アーレント的には)評価すべき活動ということになるんだが、同じベトナム戦争反対でも、それが例えば共産主義者共産党)だけが米帝国主義反対とか唱えながらの党派的(一元的)活動になってしまうと、それはアーレントから見ると否定的な活動ということになる。前者(べ平連)は複数性(多元性)を前提としているという点で人間的であり、後者は一元的(単一の価値観)である点で非人間的なのである。最近の例でいえば反原発運動かな。原発推進派は、この活動が党派的であるという非難を行うことで、運動を抑えようとやっきになっていた。まあ、そんなことを思った。