幽栖録

極私的備忘録

 その後こちらで読んだ本

『1997年−世界を変えた金融危機』竹森俊平 朝日新書
これは、最初の数ページを読んで、なるほど『金融権力』(本山美彦 岩波新書)とは違ってそうだ、と思わせます。後者は、実に古典的な善悪二元論で、要するに「アメリカ=新自由主義=悪」で、世界経済はそのおかげで大変なことになっているという、まあ単純に言えばそういう図式なんだが、そこには、世界経済の構造というか仕組みというか、経済=カネの流れが、どこか本質的なところで変化してしまった、という視点はまったく無い。戦後の日本社会に、1970年代の前半から半ばにかけて、大きな転換点があった、という、たぶん今では常識的な認識も無かったな、どうも。で、まあハッキリ言って、こちら(竹森俊平)の方が、読んでいていろいろな点で腑に落ちると言うか、今後、私はどのように行動すべきなのか、という点について、様々なヒント、あるいは考慮すべきことを教えてくれている。

『<満洲>の歴史』小林英夫 講談社現代新書
この本のノモンハン事件後の経緯を読みながら、上の本(『1997年、、、』)に書かれていた住専問題処理だとか、銀行の不良債権問題の顛末だとかの経緯を思い出した。日本軍も、90年代の大蔵省も、日本の官僚機構の一つであったわけだが、それが持つ問題点というのが、ノモンハンの時もそれから60年が経過した90年代においてもほとんど変わっていない。自己保身というのは、組織(や個人)が持つ本能みたいなものだが、官僚というのは、それがまた非常に強いのである。(だからこそ、官僚の犯す可能性のあるミスをチェックする機能というのがどうしても必要になる。)
満洲」というのは、当時の日本にとって、やはりロマンだったのだろうが、しかしそれは、現にそこで生活を営んでいた漢民族を主体とする現地の住民については、ほとんど何も考えていなかったんじゃないか? 考慮していたとしたとしても、それは結局、今のイラクで、フセインさえ倒せばイラク国民はアメリカと一緒になって国づくりに励んでくれる、みたいな能天気なレベルでしかなかったんじゃなかろうか。
満洲ではうまく行かなかった「日本式?統制経済」が、戦後の日本で、1960年代後半あたりまでは、まずまずうまくいったというのは面白い。

『できそこないの男たち』福岡伸一 光文社新書
プロローグ第一ページ目から、福岡節全開である。チンギス・ハーンの話には感激?する。

『子どもの最貧国・日本』山野良一 光文社新書
相対的貧困ラインが中央値の半分ということは、ここで言われている「親二人子一人世帯で239万円、親二人子二人世帯で279万円」が貧困ラインということは、親二人子一人世帯の中央値というのは468万円、親二人子二人世帯で558万円が中央値=ちょうど真ん中の世帯の可処分所得(税金社会保険料を引いて、児童手当など公的援助を加えたもの)、ということになる。なるほど、そんなものかもしれない。
子どもの貧困の状況と、それを変えられるということを、実に誠実に、諄々と説いている。
椅子取りゲームの喩え:10人の参加者に対して9個の椅子がある。僕の知っている椅子取りゲームは、音楽が鳴っていて止まった瞬間に椅子に座る、というやつね。で、当然、一人座れないやつが出てくる。まあ、カンが鈍いというか、ドンくさいというか、多分そういうやつが座れないんだろうな。自己責任である。同じ10人の参加者に対して7個の椅子にしたらどうなる。3人座れないやつが出てくる。やっぱり、他のシッカリ椅子を確保したやつに比べて、ちょっと動作が遅かったり、タイミングがずれていたりするんだろうな。もうちょっと真剣に練習した方が良いかも。椅子に座れなかったのは、もちろん自己責任である。椅子の数を3個にしたらどうなる。カンがよくてハシッこい3人が椅子を確保して、残りの7人は座れない。座れなかったのは、もちろん自己責任である。椅子が1個になって、勝者がただ一人であっても、残りの9人は「自己責任」で座れなかったのである。これが「自己責任」論である。どこかおかしくないか?
「自己責任」論は、その前提となっているルールについて頓着していない。10人の参加者の中で、ただ一人が落ちこぼれるようなルールであろうと、9人が落ちこぼれ勝者がただひとりとなるようなルールであろうと、結局、敗者は「自己責任」で敗れたことになる。
参加者が10人で、椅子が10個あれば、それぞれがそれぞれの椅子を確保してノンベンダラリと過ごすだけかもしれない。椅子の数が限られているからこそ、それぞれが各人の能力を研ぎ澄まし、最大限に発揮して、椅子を確保しようと行動するのだろう。椅子の数を少なくすればするほど、勝者の取り分は多くなるのかもしれない。だが、もちろん敗者の数も増える。椅子を10個用意して皆が座れるのが理想じゃないか、というのも一つの考え方である。だが、それでは、皆、ただだらだと座っているだけで自らの能力を高めようという気持ちを起こさせないじゃないか、もっと椅子の数を少なくして、それぞれが能力を高めあうべく競争することが皆のために結局はよいことなのだ、というのも一つの考え方である。その際に、椅子の数を少なくして、勝者の取り分を大きくすべきなのか、それとも、ほどほどの椅子の数で、勝者の取り分もほどほどで良いじゃないか、とするのか。僕たちが議論しなければいけないのは「ルール」であって、敗者を自己責任論で切って捨てることではないはずなのだが、、


児童養護施設」というのは、昔のいわゆる「孤児院」のことだったのね。そんなことも知りませんでした。アメリカ、イギリスでは、もうとっくの昔に、集団生活をするような施設というのは無くなっている、ということだ。「あしながおじさん」っていつの時代の小説だろう。


『日本の統治構造』飯尾潤 中公新書
自民党政権もようやく終わりが見えてきたときに、こういう本が出てきた。政治主導とか、官邸主導、というときにこの中で整理されているようなことを踏まえておかないと、かえって悲惨なことになっちゃうん(なっちゃった?)だろうな。

『日中「アジア・トップ」への条件』莫邦富 朝日新書
副題「謙虚になれ中国、寛容になれ日本」が、内容のすべてかな。これはもちろん逆「謙虚になれ日本、寛容になれ中国」でも同じことだ。著者は、言葉の最も良い意味での愛国者だな(だが「日本かぶれ」とみる中国人も居るだろう)。そして、非常にありがたい日本の観察者でもある。日本語で書かれているのだが、中国への注文が多い。これはたぶん、著者の作戦だな。所々に入れられた日本への苦言を、日本人読者が素直に受け入れるための。著者の幼いころの思い出とか、10代後半に4年半体験したという文化大革命による「下放」、文化大革命後で経済的にはほとんど破綻していた中国の様子や、貧しいけれども向学心に満ちた子供たちの様子とか、が泣かせる。著者は1953年生まれなんだな。日本人でも、今、50代半ばというと、まだまだ貧しかったころの日本、昭和30年代前半、というのを思い出すのではなかろうか。
2004年から08年にかけてのコラムだが、その間にも中国の状況が刻々と変わっている様子というのが伺える。小泉の靖国参拝というのが、おそらくは日本人が思っている以上に中国に不快感を与えていた様子も感じられる。

『日本はなぜ地球の裏側まで援助するのか』草野厚 朝日新書
あまり良いタイトルとも思えないのだが、しかし内容は、日本のODA「国際協力」の基本的なところから、けっこう深いところまでを要領よくまとめていて参考になる。官僚からの取材が多いからだと思うのだが、微妙に官僚的な見方があるな。自衛隊の派遣に関しては、著者の考えるあたりがもっとも、まあいわゆる国民的合意を得られるようなところではないかと、私も思う。

『思想地図vol.1』東浩紀北田暁大編 NHKブックス別巻
歳を取ってしまったのかな。アニメとか、J-POPとか、まあもういいか、って感じになってるなぁ。北田暁大は1971年生まれなんだが、なんか感覚が、いわゆる旧左翼のメンタリティという印象を受けるんだな。

憲法の力』伊藤真 集英社新書
実に真っ当な日本国憲法に関する本。日本国憲法は、300万日本国人民の犠牲の上に上に成立している、という視点は重要である。九条は、まさに理想であるからこそ、残されなければならない。しかし、安倍がコケて、憲法改正の動きというのは急速にしぼんだように見えるのだがどうだろうか。憲法改正は票にならない=国民の多くがその必要性を感じていない、いやむしろ、今のままで良いじゃないかと思っているのが多数派なんじゃないかと思うのだが。まあ、そのときの雰囲気で何が起こるかわからないからな。

貧困の終焉ジェフリー・サックス 早川書房
まだ読み始めたばかりだが、これは良い本だ。国際協力、援助に関心を
持つ人間にとっての基礎知識である。