指揮:トゥガン・ソヒエフ
ピアノ:ボリス・ベレゾフスキー
ボロディン/交響詩「中央アジアの草原で」
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18
プロコフィエフ/交響曲 第5番 変ロ長調 作品100
ボロディン (1833〜1887)
交響詩「中央アジアの草原で」
時を経て創意や創作背景が陰に隠れてもタイトルと響きが雄弁に語る。アレクサンドル・ボロディンの《中央アジアの草原で》はそんな作品である。本職の化学者としての激務をこなしたボロディンが世に残した作品は少ないが、《中央アジアの草原で》はオペラ《イーゴリ公》と並び、圧倒的な人気を誇る。両作ともロシア国民楽派においてオリエンタリズムが話題となる際には必ず登場する輝かしい金字塔である。
アレクサンドル2世の即位25周年にあたる1880年、記念行事の一環で、皇帝のそれまでの在位期間の偉業をいくつかの活人画(舞台背景の前で俳優たちが静止して画中の人物のように演じること)で上演する企画が持ち上がった。その舞台の付随音楽を依頼されたのが、リムスキー・コルサコフ、アントン・ルビンシテイン、チャイコフスキー、ムソルグスキー、キュイ、ボロディンらで、ボロディンが同年に完成させたのが《中央アジアの草原で》であった。
ボロディンが依頼された活人画は、当時、凄烈(せいれつ)に進められた中央アジアへの領土拡大であった。1882年の初版楽譜には「音楽的絵画」というジャンル名とともに曲の構想(プログラム)が掲載されている。その内容は音楽で描かれている世界そのもの。
広大な中央アジアの草原をロシアの民謡が響く。遠くから馬とラクダに荷物を積んだアジアのキャラバンが近づいて来て、東洋風の旋律が流れる。冒頭のロシア民謡の主題が徐々に力強く展開し、ロシア兵に護衛されながら歩を進める様子が描かれる。ふたたび東洋風の旋律が再現し、やがて二つの主題は合わさり、キャラバンは遠のいていく。
ちなみにこの活人画の企画自体は流れてしまった。もし実現していたら、音楽の受容のされ方もまた変わっていたことだろう。なおタイトルの《中央アジアの草原で》は欧米や日本での通称で、原題は「中央アジアにて」である。
作曲年代:1880年
初演:1880年4月20日(旧ロシア暦4月8日)、リムスキー・コルサコフ指揮、歌手ダリア・レオノワの企画演奏会
(中田朱美)
ラフマニノフ (1873〜1943)
ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18
セルゲイ・ラフマニノフはモスクワ音楽院のピアノ科と作曲科をともに首席で卒業している。順風満帆と思われたこの若き駿才の人生最初の大きな挫折は、1897年にサンクトペテルブルクで行われた《交響曲第1番》初演の不成功とその後の悪評であった。一連の出来事はラフマニノフにとって大きなトラウマとなり、作曲活動の足かせとなる。その後の約3年間、ラフマニノフは作品番号つきの曲を残していない。この間、歌劇場の指揮者として多忙な日々を過ごしたが、作曲の道を諦めたわけではなかった。小品を手がけながら、また1900年春に受けたモスクワの精神科医ニコライ・ダーリの催眠療法にも後押しされる形で、満を持して1901年にこの大規模な《ピアノ協奏曲第2番》を完成させた。
曲はピアノの低声部に流れる鐘の音で静かに幕を開け、圧倒的な詩情、叙情性とともに全3楽章を疾走する。その背後には、作品全体にわたる抑揚の緻密(ちみつ)な連関が存在している。また第2楽章冒頭のコラール的な和音進行(サブドミナント→トニックのプラガル終止と半音階による和声進行)は、敬愛するチャイコフスキーが好んでよく用いた響き。先達からの伝統的技法によって作曲家自身のパトスが結晶化されたこの作品は、国内外の初演時から大成功を収め、以来、われわれの知る不動の人気を博している。
第1楽章 モデラート ハ短調 2/2拍子。鐘を模したピアノ・ソロの序奏に始まるソナタ形式。
第2楽章 アダージョ・ソステヌート ホ長調 4/4拍子。コラール的な和音進行の序奏に始まる3部形式。
第3楽章 アレグロ・スケルツァンド ハ短調(主部) 2/2拍子―ハ長調。どこかコミカルなリズムの導入部につづいて、炎のような第1主題、対照的に叙情的な第2主題が、ともに変奏されながらロンド風に展開する。
作曲年代:1900年〜1901年4月
初演:1901年10月27日(旧ロシア暦)、作曲者自身のピアノ、アレクサンドル・ジロティ指揮、モスクワ・フィルハーモニー協会主催演奏会
(中田朱美)
プロコフィエフ (1891〜1953)
交響曲 第5番 変ロ長調 作品100
ロンドンにあるセルゲイ・プロコフィエフのアルヒーフには、1920年代初頭〜1930年代半ばにやり取りされた約11,000点の書簡資料が所蔵されている。書簡の几帳面な保管状況や文面からは、縁を大切にした人柄が伝わってくる。
とりわけ自作を演奏してくれるよう熱心に指揮者やエージェントに依頼する手紙が目を引く。自作以外では10歳年上で唯一無二の親友であった学友ミャスコフスキーの作品を何度となく推薦している。ヘンリー・ウッドなどの著名指揮者たちにミャスコフスキーの作品を推薦しては当人に報告し、先方から返事をもらえばまた報告し、とまるで我が事のように懸命である。
プロコフィエフはよく知られているように1918年に日本を経由してアメリカに居を移した。その後、アメリカからヨーロッパ、そしてソ連への帰国へと、多くの亡命ロシア人音楽家たちが辿った方向とは真逆の経路をたどる。しかも完全帰国をはたした1936年は、「エジョフシチナ」として知られる大粛清の始まりの年であった。これはある種不可解な行動であったが、ヨーロッパでの人気が翳(かげ)りを見せていた1930年代にソ連では成功していたという状況に加え、常に自分の味方でいてくれたミャスコフスキーから再三帰国を勧められたことも、プロコフィエフの決意を後押ししたと想像される。
ソ連に帰国したプロコフィエフを待っていたのは決して平坦な道ではなかった。ようやく1940年代半ばになって自他ともに認める国民的作曲家としての輝かしい時期を迎える。それを象徴的に示しているのが、1946年のスターリン国家賞第1席の4作品同時受賞である。戦時下にあった1943〜1945年の3年分の授与が1946年にまとめて行われたこともあり、結果としてプロコフィエフは、ソ連音楽史において後にも先にもこのとき一度きりの4作品での第1席同時受賞という快挙を果たした。その4作品とはいずれも1944年に完成された《ピアノ・ソナタ第8番》と《交響曲第5番》、バレエ《シンデレラ》、さらにプロコフィエフが音楽を創作したエイゼンシテイン監督の映画『イワン雷帝』である。
ソ連において交響曲は記念碑的なジャンルとして重要視されており、プロコフィエフが実に15年ぶりの交響曲となる《第5番》を完成させたのもこうした時流を受けてのことと考えられる。さらに第二次世界大戦末期にあって、ソ連の勝利を確信する祝勝ムードとも合致し、1945年1月に作曲家本人の指揮で行われた初演は大成功を収めた。
この作品はそれまでのプロコフィエフ的な不協和音が影を潜め、全音階的な旋律と分かりやすい形式で書かれている。作品に表題はないが、後にプロコフィエフはこの曲で「人間の精神の偉大さ」を表そうとしたと語っている。
第1楽章 アンダンテ 変ロ長調 3/4拍子。ソナタ形式。冒頭でフルートとファゴットが第1主題を牧歌的に奏でる。オペラ《修道院での結婚》やバレエ《ロメオとジュリエット》といった舞台音楽の情景的な調べを彷彿とさせる。第2主題は叙情的な響き。再現部冒頭、第1主題は打って変わって金管楽器による荘厳な雰囲気に包まれる。その祝祭性は第2主題後のクライマックス、コーダに引き継がれる。
第2楽章 アレグロ・マルカート ニ短調 4/4 拍子。ニ長調の中間部をもつスケルツォ。諧謔(かいぎゃく)的な主題が変奏されていく。この変奏のひとつに弱音器を付けた第1ヴァイオリンによる16分音符のパッセージがある。これはもともと1930年代前半に書かれたアイディア帳(スケッチブック)に残されていたもので、《ロメオとジュリエット》の草稿でエンディングに使われていたことが近年の研究でわかっている。
第3楽章 アダージョ ヘ長調 3/4拍子。楽譜上は長調の表記であるが、美しくも物悲しい息の長いモノローグが流れる。その美しさは前の楽章のスケルツォとのギャップによって一層際立っている。
第4楽章 アレグロ・ジョコーソ 変ロ長調 2/2 拍子。ロンド形式。導入部では冒頭のパッセージにつづき、第1楽章の第1主題が流れる。つづくロンド主題ではプロコフィエフ独特の半音階的な転調が愉しい。ここに副主題としてやはり第1楽章提示部最後に登場する滑稽(こっけい)なパッセージがつづく。中間部で低弦によって奏される旋律も上述のアイディア帳にあったもの。コーダではこれらの主題が一体化し、華やかに幕を閉じる。
作曲年代:1944年夏
初演:1945年1月13日、モスクワ音楽院大ホール、作曲者自身の指揮によるソ連国立交響楽団
(中田朱美)